世の中にはいろいろな理論があって、どれもこれも理路整然とあるものですから、つい納得してしまいます。そんな私は、友人から「性善説と性悪説、どっち派?」と聞かれ、即座に性善説派と答えた覚えがあります。
とはいえ、性悪説もなるほどなと思うところが多く、はっきりこっちだと言い切れるものではないのです。さらにです、白紙説もあると知り、私の頭はさらに複雑化してしまってます。もともと感覚的に生きているので、理論を並べ立てるのは苦手(^_^;)
少し整理をしたくて書いてみることにしました。
性善説
儒家の孟子が説いた、人は先天的に道徳的で善であるというもの。人は善であっても賢にあらず、弱く悪に流されてしまいやすいもの。なので修業は必要で、修行や育成により開花させることができればで立派な人間になれる。
性悪説
同じく儒家の荀子が説いた、人は生まれたときは善でも悪でもなく、後天的に経験したことや環境などによって悪にも善にもなるというもの。修行することで善になるというのは性善説と同じ
性悪の「悪」はいろいろなとらえ方をされて、“ 人は本来は悪であり、修行によって善人になれる“ というのと、“ 人は本来悪であるから、人を見たら疑ってかかるべき“ というのがあるようです
白紙説
ジョンロックが説いたもので、人は生まれたときは白紙(タブラ・ラーサ、羅:tabula rasa)として生得観念(innate ideas)を有していない。観念の起原はあくまでも経験であり、我々の側にあるのはせいぜいそれらを認識し、加工する能力だけである。(wikiより)。
白紙の心に、積み重ねた経験により心が出来上がるというもの。善だの悪だのと言っているのは経験に基づく感覚(ジョンロックをはじめとする感覚論より)
性悪説と白紙説は、先天的なものではどちらも善悪の区別はなく後天的にというところで似てますね。性悪説の「悪」を善の反対と思ってしまうと、別物になってしまいますね。
どれも至極納得してしまう私はなんなのでしょうか(滝汗)
経験や環境によって形成されたり、白紙論のように後天的に観た感覚にすぎないというのは、すごく同感します。
ただ、人は生まれながらにもった愛があるように私は思ってます。前世だとか全く見えないのですが、なんとなく感覚で未経験のことにまで反応してしまうものがあり、それが生まれ持った愛なのかなと思うのです。情というか愛、親子愛や同士愛、郷土愛、ペットや植物、モノなども含めてです。もしそうであるとしたら、せっかく生まれ持ったものなのに、自分の弱さやつまらないことで失われたり、悪の道に引っ張られたりは、寂しいことです。ですので、善悪というほどではないのですが、私の考えは性善説に近いかなぁと
ま、とらえ方はいろいろあれど
人が修行して善行を行うのは全部共通してますから、日々精進します
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